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2022.10.31
布沢川〜吉尾峠
カテゴリー:ハイキング

2022年10月31日

当初は何度も後回しにしてきた只見の木ノ根沢から八十里越を計画していたのだが、往復の長い車道歩きがおっくうだった。おまけにそれほど行きたい沢かと自問すれば、う〜ん。八十里越は河合継之助の辞世の句「八十里 腰抜け武士の 越す峠」としても知られているが、今の自分は腰抜け武士の越す峠さえ越せないほど気力が萎えてしまったのかもしれない。

そんな折に思いついたのが、これまた長年気になっていた歴史の峠、吉尾峠だった。この展開、落差がありすぎるけれど、布沢川のブナの森を散策しながらたどれば晴天が約束された紅葉の山歩きが楽しめるはず。最初に布沢川を訪れたのは2008年だが、それ以前に「会津の峠」(歴史春秋社、2006年)を読んで以来、さまざまな歴史をたどってきた吉尾峠(よしゅうとうげ)に関心を持ちいつか行きたいと思っていた。

吉尾峠は現在の只見町から会津若松への峠道でいわゆる銀山街道南端の峠である。江戸時代中期は南会津一帯は江戸幕府直轄の南山御蔵入領として厳しい年貢の取り立て、江戸廻米が行われていた。疲弊した農民が抗議行動を起こし、首謀者六名が斬首された。後年「南山御蔵入騒動」と呼ばれている農民一揆だ。首謀者のうち三名の首は吉尾峠を経て布沢村はじめ故郷の村に帰ったという。また直轄領時代は巡見使の道でもあった。吉尾峠は山神社前が巡検使の休憩地であったという記録が残っている。巡検使への対応も地元農民にとってはさまざまな供出が課せられ大きな負担だったはずだ。

吉尾峠の西の少し離れた平地には吉尾集落が存在し、最後は五戸の人々が暮らしていた。小学校の分校もあったという。けれど1969年8月に大出水が発生し家も田畑も全てが水没した。再建は困難で翌年には全戸離村という運命を辿った。

一方、そうした歴史を持つ吉尾集落と峠を保存しようとする活動も行われているようだ。今回歩いてみて、近年さらにその動きが加速化されている印象を受けた。道は刈払いが行われ予想以上に整備されており、途中にはこれからさらに橋や川縁を整備すると思われる真新しい建材が積まれていた。吉尾集落とは別に木地師集落跡の標識もあった。古くから田島村につぐ人口をもつ野尻村と布沢村との交易の道であったことから、きっと今では想像もつかない多様な人々の営みが存在していたのだろう。

何の変哲もない山道だけれど、奥会津の片隅の歴史をたとえ片鱗でも感じることができて味わい深い山歩きとなった。そしてもちろん吉尾峠に先立って大滝沢に立ち寄り(魚留ノ滝まで)、燃えるような紅葉を全身に浴びながらの沢ハイキングを楽しんだことはいうまでもない。

今回はにわか準備のため大した予備知識もなかったが、やはり歴史の現場に立つともっと知りたいという気持ちが沸き起こった。これからはこんな風に古の歴史を感じながら会津の峠道を歩いてみたいと思った。

 

 

 

 

車道終点の奥、布沢川源流から吉尾峠へ