歴史を秘めた帝釈山系の沢

尾瀬の沢については、大清水側から入る日帰沢から始まり、最近は檜枝岐側から入る実川の硫黄沢や赤倉沢に足を伸ばし、さらに今回は舟岐川へと目を広げてみました。

手軽な面白さでいえば、初期に遡行した大清水側の沢に軍配があがることは明らかなのですが、最近は沢に求めるものも変わってきたことを感じています。そう、なにもないことの心の安らぎが感じられる沢旅指向がますます強まっているのです。

今回遡行した舟岐川火打石沢は源頭に近づくと、登山道のようなナメがつづき引馬峠に至ります。引馬峠という名前自体から、かつての人々や物の往来がしのばれます。「低場」から転じた呼び名という説もあるようですが、かつては引馬峠から栗山村側の平五郎山に伸びる尾根に道が開け、川俣温泉につながっていたとのこと。

『会津の峠』(下)によると、檜枝岐村の茅葺き職人集団「会津茅手」の往環路であり、木地師の曲げ物などが運ばれ、川俣からは陸の孤島に塩が運ばれたそうです。

ガイド本的な『会津の峠』で簡単な情報を仕入れたらもっと知りたくなり、ずっと前に古本の復刻版を購入してまだ目を通していなかった『尾瀬と檜枝岐』を開いてみました。700頁もある力作で、最初に出版されたのは、なんと第二次大戦まっただ中の昭和17年。編集後記には「皇紀に千六百二年」とあります。内容は多彩で、尾瀬の学術研究から、檜枝岐の風土記、山行記録など。

そして今回の遡行と引馬峠への関心から、パラパラ頁をめくって目に留まったのが、沼井鉄太郎の「黒岩山を探る」という山行記録でした。なんと大正九年の記録です。川俣温泉から平五郎山を経て引馬峠に至り、黒岩山から実川を下って檜枝岐に抜けているのですが、途中にけっこう仮小屋や鳥屋場小屋などが登場します。麓の山人の生活圏であったことがわかり興味深い記録です。

歳のせいか、山行のたびにこうした歴史に触れることの喜びを感じます。まだ聞きかじりで表面をなぞる程度ですが、新しい沢の楽しみ方をこれからも追求していきたいと思うこのごろです。

って、まとまりのない雑感ですけど、これ「雑記帳」ですものね、なんでもありです。このところ、ちょっと記載が滞っていたので、書いてみました。(右の写真が引馬峠です)

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